2013年10月25日 朝日新聞朝刊 32面
個性派たちを育んだ懐の深さ
第7章「かをり」創業者も/HとJの間には・・・
横浜平沼高校7
青春スクロール・母校群像記
横浜平沼(以下平沼)に何度か足を運んだ。平沼祭では男子が女装して観客の喝采を浴びていた。関東高校選手権大会に出場する女子ハンドボール部などの垂れ幕が下がる。スマートで屈託ない校風を肌で感じた。
横浜平沼高校の正門。生徒の自主性を尊重する校風は今も変わらない
平沼OBの小野力が校長になり、「連携もスムーズでやりやすい」と語るのは同窓会「真澄会」の会長、鈴木宏司(70、1962年卒)。鈴木自身、物理の教員として平沼の教壇に立った。中学3年の時に体を壊して体育の授業も見学した。「野球をやりたくてたまらなかった」。教員時代に野球部の顧問を10年務めた。
体を壊して体育祭も平翠戦も参加できず悔しい思いをした鈴木
その野球部OB会会長の早福久雄(72、60年卒)は1年生からレギュラーだった。57年の神奈川大会で強豪、横浜商を3対0で破り準々決勝へ。期待はふくらんだが、法政二戦で22対0と完敗した。「彼女が早福の妹か」と入学時に話題になったのが鵜飼禎子(70、62年卒)。中学からバスケット選手として注目され、平沼でもインターハイなどで活躍。三菱電機時代には64年の女子バスケットボール世界選手権に日本チームが初出場、選手としてプレーした。「今問題になっている体罰は全然なかった。本当に楽しい3年間でしたね」。今は愛知県に在住、プールに通っては体を鍛えている。平沼バスケット部の黄金時代の陰には、「もげ」と呼ばれた名コーチ、増田庸光(故人、63年卒)の存在があった。
横浜発祥の洋菓子店として県外にも知られる「かをり」の創業者、板倉タケ(故人、32年卒)は第一高女時代の卒業生。現在の経営者、板倉敬子の実母。「私の祖母が何とか娘を第一高女にと猛勉強させたみたいです」と敬子は言う。父も夫も船員だったタケには西洋的なセンスが身についていたのかもしれない。
地元で横浜の観光に力を入れているのは、横浜シティガイド協会副会長の嶋田昌子(73、59年卒)。入学して5月に生死の境をさまよう交通事故にあい、秋まで入院生活を送る。文芸部で三好達治の詩などを読んでいた。
数年前まで当時の英語の教師を囲む会を続けるほど濃密な師弟関係を築いた嶋田
2012年には横浜文化賞を受賞した。「H(平沼)とJ(希望ヶ丘、旧制神奈川県中で神中と呼ばれた)の間にはI(愛)がある、なんていう言葉がはやってたわね」。かつては男子校と女子校。誰かが作ったはやり言葉から、青春時代の甘酸っぱい香りが漂ってくる。
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横浜平沼は今回で終わります。故人を含めて敬称略で紹介しました。次シリーズは1921年に県立平沼高等女学校として創立し、「自主自律」「自他敬愛」を掲げる伝統校、平塚江南高校を取り上げます。この連載は佐藤太郎が担当しました。