かながわ風土記 第160号 郷土の歴史・民族・文化を綴る地域文化総合誌

神奈川県文化史(5)

横浜山下町七十番地の今昔

―外国人のホテル・商社、日本人の三菱商事、『かをり』商事の経営者群像―

草間俊郎
(県立栄養短大教授)

幕末の、外国人居留地の、七十番地

1861(文久元)年、横浜に造成した外国人居留地に地番が付された。翌年のA・クラークの横浜地図を見ると、その地番は、現在の山下町のそれとほぼ一致している。

ただ、北東は山下公園でなく直接、海に接し、南西は埋め立て中で無番地である(のち、中華街となる)。1番地から107番地までは、130年前と同じ番地という所は、日本の都市では極めて珍らしい。例えば、1番地は今はシルクセンター、昔はジャーディン・マセソン商社である。日本側も居留地人名録を作っている。1862(文久2)年の『横浜ばなし』には「外人にて初めて商館を建築せしは英一番」とある。そのあとに番地と人名があり、七十番地の箇所に「七十番蘭 異人旅籠屋カブタイメン」とある。要するに、居留地七十番地でオランダ人のカブタイメンが旅館をしていたのである。さかのぼって、文久元年の『外人住宅図』をみると、七十番の所に「オランダ五番 ナッショウ住家」とある。当時、オランダ系の住宅は、一番がヘヒト家で、このナッショウ家は五番目で「蘭五番」と称されたのである。では「ナッショウ」とは何か。当時、横浜港に出入りしていたオランダ船である。ところが、その船長はオランダ人「ホフチフル(フフナーゲル)」である。(正しくはHuffnagelでホフナゲルのことであろう)。その「ホフチフル(フフナーゲル)」は人名録では107番地に住んでいるから、七十番には始め「ホフチフル(フフナーゲル)」経営の旅籠屋があったようだ。

そうであるならば、この旅館は、当時の外国人が利用していたはずであり、外国人むけの新聞に広告が出ているべきものだ。『横浜もののはじめ考』は、上海の英字新聞の広告「ヨコハマ・ホテル」を示し、1860(万延元)年、このホテルをホフナゲル(フフナーゲル)が横浜居留地七十番地に創業したと指摘し、これを横浜でのホテルのはじめとする。

1865(元治元)年の『ジャパン・タイムズ』にも「ヨコハマ・ホテル」の広告も、はっきり、それが七十番地にあったことを示す。かくて、これらにより、居留地七十番地は、ホテル発祥の地として記念すべき所なのである。また、当時、来浜した外国人の日記は、このホテル内にバー、玉突きがあったとするので、これらの発祥の地でもある。だが、ホテルは、1867(慶応2)年、横浜の大火事で類焼し、廃業してしまう。

明治期における横浜居留地 七〇番地の住人と会社

一八六八(明治元)年には、商人のロレリオ・エドカルド(スペイン人)、競売業のジェロビッチ会社があったが、二年後には転出し、スチウェル・ショヤー会社という、デンマーク・アメリカの合弁会社と、競売業・茶検査業のボーン会社(英国系)が転入する。このほか、ドイツ人のマイヤー(洋品輸入業)やカーン(輸入業)、ローマン(洋服業)、も転入した。ストランドベルグ夫人はホテル業を営んでいたが、ここに、この年、『ゴールデン・ルール・ホテル』を開いた。女性社長であるためか、あらゆる点に気をくばって旅客を慰めてやるとか、最良のワインとウイスキーも出すとか広告している。一八七五年には、さらに倉庫管理業・食糧商のA・ハーン会社が開設され、船積みむけ、家庭むけに食糧を出荷したようだ。また、有名なローマン・クッヒマイスター商社も七〇番地にオープンしている。七七年には、ローマン商会は依然、存在したが、あとは次の商社があった。

〇ハドソン商会(ハドソンが社長でブレント、キルビーを支配人とする、機械販売業)

〇グレイ会社(グレイが社長、ラッセルを副社長とする、ワインとウイスキーの販売会社)

〇コッキング商会(S・コッキングは英国人で、このころ武器・缶詰・機械を輸入し政府に売っていたが、次第に拡張し、洋画材料の輸入、薄荷油を製造し、日本産のゆりを輸出する。晩年、江の島に植物園をつくって有名になる。彼は、若いときから努力を重ね、成功するや慈善事業や寄附を行なった人である)。

以上のうち、ハドソン商会の社長のハドソンは、キルビーに経営をまかせるに至り、英国に帰ってしまう。そこで、一八八〇年からは、フリント・キルビー商会となり、キルビーとブレントが経営する。ロンドンから器械・銅鉄・砂糖・洋紙・織物・油・潜水器を輸入し、陶器・絹を輸出していた。

一八八六(明治一九)年、『日本絵入商人録』が出版され、そこに七〇番地のフリント・キルビー商会の建物全体を見ることができる(従って、図版は同書による)。また、同書の図版に日本字で「船舶荷物問屋」の看板と建物をのせた「マカーサ商店」は、イギリス人マッカーサーの経営にかかる。明治一四年、この地に開店したが、それまでは沖仲仕として苦労したようだ。五年間、当地で営業し、五二番地(本町通り)に移転している。また、「横浜赤門七拾番 カール、ローデ商会」のビルもある(創立一八七六年)。ハンブルグの火災保険会社、ミュンヘンの運輸会社、ロンドン海上保険など多くの欧州の会社の代理店であり、カール・ローデもハンブルグに住むことが多かった。

H・ベールを支配人とし、七人のドイツ人を雇用し、輸出入業も大規模に営んだ。主たる取扱い品は、ペイント・セメント・レンガ・ガス菅・染料等である。

一八八一(明治二一)年、会社としては、ジャパン・ギャゼット社(新聞社)、イビソン会社のほか、従前からのカール・ロード会社がある。個人の商店、住宅では、H・ジョセフ(商人)、パーマー(船舶代理店)のほか四人が住んでいる。

以後、一〇年、七〇番地に引き続きあったのは、ジャパン・ギャゼットとH・ジョセフ商店、カール・ロード会社だけである。このように、転出入が頻繁であるが、時代が進むにつれて鎮静化し定着する。

大正期、山下町七〇番地の三菱商事株式会社

横浜居留地は、条約改正により廃止され、一八九九年(明治三二)年、その名は、山下町と改められた。では、横浜市山下町七〇番地には、どんな会社があったのか。これを、一九一九(大正七)年でみると、まず、明治期からのカール・ロードがある。依然として、輸出入の問屋、保険会社の代理店、‎度量衡器販売等で知られている。

ドイツ人のルドルフ・ファトマンの経営する合資会社(これはワイン・不動産売買を目的として一九〇四年設立)もある。

一九二一(大正一〇)年には、三菱商事株式会社の横浜支店が登場している。三菱商事は三菱合資会社営業部の業務を一九一八年に継承し独立した会社で、三菱合資の鉱山・炭坑、船舶運輸、一般商品の販売等が具体的な内容であった。もともと、三菱系会社の起源は、実に、岩崎弥太郎が一八七〇年に興した運漕会社なのであって、三隻の汽船で旅客・貨物を東京・高知間を運ぶことで始まったのである。そして、翌七一年、土佐藩主・山内家の紋章に似せた三菱を商標として、三菱商会と称した。その後、競争相手に共同運輸が出現し対抗馬となったが、一八八五年、政府の後援もあって、共同を吸収し、日本郵船株式会社を設立した。このとき、三菱合資は運輸以外の部門(鉱業、化学工業、造船、機械工業、物品販売、不動産、銀行等)を担当する会社として発足したのである(一八九三年)。それから一五年たち、再びノレン分けをして三菱商事が設けられ、国の内外の支店、出張所を拠点として、貿易業務の拡大をはかったのだった。そして、戦後の財閥解体で一時、弱体化したが、三菱銀行を中心に再建された。

現在の山下町七〇番地の商事会社『かをり』

現在、この地には日本赤十字社神奈川県支部神奈川県センター、ライオンズ・マンション、かをり商事会社等がある。このうち、この地と浅からぬ因縁の、かをり商事会社を紹介してみよう。一九四七(昭和ニニ)年、『かをり』は、喫茶店として、横浜橋通り近辺(伊勢佐木町五丁目)で誕生した。初代社長、板倉富治の妻、板倉タケがオープンを強く主張したという。社長は日本郵船に一九二七年以来、勤続していたし、その父君・作次郎も日本郵船の司厨長だったことから、飲食店経営には充分な人的、物的な条件をもっていたといえる。

初代社長・富治は、一九〇九(明治四二)年、埼玉県に生まれ東京府立第二商業学校卒業後、一九二七年、日本郵船入社、六甲丸を振り出しに外国航路の十数隻の客船事務に従った。山形丸、ぜのあ丸では首席事務員、能代丸では執事長となった(一九四三年)。終戦時には船舶全体の運営にあたっている。「かをり」の屋号の由縁は、彼が世界を航海しているうちに、フランス料理の魅力が香りにあることに気づき、香りを楽しめる店の実現を期したことにあること、また、「敷島の大和こころを人問はば朝日に匂ふ山桜花」(本居宣長)の真意の、香り高き日本文化の復活を希求したことにあるともいわれる。

かくて、日本郵船所属の一等船のコックを集めて、フランス料理も始め、コニャック、舶来ワインをふんだんに使って調理し、香りと味の良いディナーを提供するようになる。一九五七年、伊勢佐木町二丁目に移り、空気調節やアクリル製ドアを設備した四階建てのビルを建てた。西洋料理の本格的コースは、デザートにケーキを出す。そこで、社長は、ケーキ、洋菓子の開発にも乗り出した。一九七〇(昭和四五)年、現在の山下町に七階建てのビルをつくり、八月一三日に新装開店する。一階はスナックコーナー、カクテルラウンジ、二階はメインダイニングルーム、三階は八人用までの部屋二、六人用までの部屋一、一五人用の部屋一、計四部屋とし、本格的フランス料理を大きく宣伝した。料理はソースに力点をおき、長時間、多くの材料を煮込んでソースの素とし、これをベースに魚料理、肉料理に使った。舌平目のカルディナール、カニグラタン、ポラパン等が評判となった。四年後、遠方の人のためにデリバリー・システムを始める。一九七五年ごろから、洋菓子部門を拡張し、ブランデーも入ったチョコレート「トリフ」を始め、レーズン・サンド、ブランデー・ケーキなど手作りの風味を出すよう苦心している。

一九八二年、富治社長が死去し、妻のタケが社長を継いだ。煮込み料理、香り高いソースを土台として料理の種類を増やすと共に、洋菓子を西武、高島屋などのデパートで販売し始め、一九八七年には「かをり商事」の年商を九億円とした。彼女は、日本調理師会理事、横浜調理協会役員、神奈川県日赤紺綬会会員など社会活動も積極的に行ったが、一九八八年、逝去した。現在の、三代目社長は、板倉夫妻の娘・篠原敬子である。先代からの人気メニューを継承するレストランと喫茶室、菓子売店の経営管理を自ら手がける一方で、東京、横浜等の百貨店および、帝劇、人形の家で自家製の洋菓子を売るなど、ノレンを守るため大変な努力を重ねているようだ。

(文中敬称略)

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